僕のことをおいて、過ぎ去って行ってしまった『春』を追い駆けて…
2024.04.16、福島県 柳津町
『只見川を観ながら…桜も観ながら…』
新境地…!?の中で…
独りで、福島県 柳津まで、車で走らせていく。
「そう言えば…今年は…まともに…桜の花を観ていない…」
2024.04.13、土曜日、講道館新館、6階、学校道場にて、全日本柔道形競技大会の直通予選である
『全国枠予選』
が開催された。結論を先に言えば、今回は、見事に予選落ちをした。
今回の『全国枠予選』では、個人的に新たな柔道の形の演目:『五の形』で、そして、新たなペアーで、挑戦を開始した。
初めから『全日本』を意識した挑戦であるから…当然というか…『それだけの稽古』を積んだ。
足りない…ものは、補い…
間違っているものは、修正し…
そして…
出来ないことを…『無理やり』…出来るようにまで…仕上げた。
『無理やり』…とは、文字通りの無理やりである。
本来は…
この『五の形』は、
100年、200年、あるいは、それ以上の時間を積み上げて、そのエッセンスが遺されてきたものである。
世間一般に柔道と語られるより以前の
天神真楊流や起倒流の奥伝に相当するものを組み合わせて、この『五の形』は出来ている。
実際に、この『五の形』の稽古を始めたが…当初は、通し演武が全く出来なかった。
僕は、『五の形』の『受け』を務めているのだが…受け身が全く出来なかったのだ。
出来ないことを…思いつく限り…『細分化』して
その『細分化』した、一つ一つを意識しながら稽古に改めて臨む。
でも…それで、出来るようになるのならば苦労はない。
…
「…なんとなく…出来そうなのだが…」
…
そんな『感覚』だけが、先行する。そして…あるときに…なんの前触れもなく…受け身が出来た。
「えっつ!?」
このときで、形の稽古を始めてから…約…2か月半ぐらいの時間が経っていたのだろうか…
とにかく…この段階で、
『五の形』の通し演武が出来るようになった。
本来は…2か月半よりも、もっと、もっと、丁寧に時間を掛けた稽古をすべきだったのだろう。
改めて感じる。
『時間を掛ける(あるいは、経過した時が … … … 解決をする)』
というのは、単純明快な大自然の摂理の一つなのだろう。
これに対して、僕がしたことは…
『1つの出来ないことを…思いつく限り…『細分化』して、その『細分化』した一つ一つを意識しながら稽古に改めて臨む。
やがて、『細分化』された一つ一つが、元の1つの総体のものへと戻り…
その渦中で、僕に足りなかった『感覚』を、僕へもたらす…』
僕が獲得した『鍛錬』の一部になる。僕は、極めて危険な事をしていた。時間軸を無視して…
『その研究方法を今後も取るのなら…定期的にちゃんと休まないと…危険だよ…寿命を縮めるよ…』
かつて大学院時代に、とある教授から受けた忠告である。実際に、当時は…何度か身体を壊した。
柔道の『五の形』への挑戦…
初めての…文字通りの『0(ゼロ)からのスタート』である。全てが出来なかったわけではなかったが…
出来ない事(解っていない事)…の方が多かった。
僕は、獲得した『鍛錬』の一部を何重にもして、この『五の形』の稽古をした。
そして…
実際の『全国枠予選』、その本番の『五の形』の形の演武に於いて、5本披露する演武の3本目…
受けを務める者として、受け身を見事に失敗した。受け身は、完全に失敗した。今、思えば、
それでも、立ち上がれていたのは、奇跡に近かった。
泣きそうになる自分を抑えながら…
とにかく…演武をやり切ることを意識しながら…
『また…ぞっとする長い1年が始まる…』
そういう、心の呟きを抑えながら…4本目、…5本目、の演武をやり切り、
とにかく…『全国枠予選』、その本番の『五の形』の演武をやり切った。
少なくとも、今の自分が出来ないものを、
『納得のいく出来るレベルにまで仕上げて』
『全国枠予選』
に臨んだ。
知らない人は平然と言う。
「緊張していたんでしょ!」
「体が硬くなっていたんでしょ!!」
などと…
知りようもなければ…解かりようもないのだろう。
なによりも、当初は、僕自身も、3本目のあの瞬間…何が起きたのかさっぱりだった。
「えっつ!?」
以下も、
僕が獲得をしている『鍛錬』の一部になる。
『五の形』は、
100年、200年、あるいは、それ以上の時間を積み上げて、そのエッセンスが遺されてきたものである。
世間一般に柔道と語られるより以前の
天神真楊流や起倒流の奥伝に相当するものを組み合わせて、この『五の形』は出来ている。
『五の形』を、手短に言ってしまえば…
『宇宙、大自然の運行哲理を柔道的に表現したもの』
…なのだが、今、僕が獲得をしているものは、この上記表現の、更に、その細部に至るまでのものである。
そして、それは、勿論というか…講道館で売られている『五の形』の形の教本に書いてない(描かれていない)内容になる。
相当な意識をして、『五の形』の稽古をし、実際の『五の形』の稽古という身体操作をして獲得したものになる。
今、此処で披露することはしないが…いずれ、言語化したものを『公に』するつもりではいる。
『公に』
とは、描いたが…どれだけの人が、解るのか、どれだけの人に伝わるのかは不明である。
ただ、幸いなことは、これは柔道の『形』であって、少なくとも、取、受、の二人で形の演武をしている。
実際の、この『五の形』の稽古という身体操作をしている、僕が受けを務めるのに対する、相方の取を務める人には、
今、僕が獲得したものを文章化(言語化)したものを見せてはある。
一緒に、『五の形』という、特殊な稽古をしているから…
もあるが、僕が獲得しているもののの、隅々まで理解している、いや、同時に、言語化していなかっただけで、
僕だけでなく、相方も獲得しているものが確かに此処にある。
僕が描いたものを読んで、相方は、物凄く頷いている。
公開をしていないこともあるが、頷くことが出来るのは、この相方だけなのかもしれない。
『公に』
とは…したいが、現実的には、ほぼ不可能に近いのだろう。残酷な現実が此処に確かに在る。
武術的な言葉でいうと…
『(僕が描いたものを見たとしても)誰もが取れる…わけではない…』
誰もが、『同じ景色』を観れるとは限らない…
が、少なくとも、相方は、『同じ景色』を観てくれているようだ…
だが…今回の
『五の形』の演武による
『全日本』
への挑戦…
実際の稽古の身体操作のみならず、必要に迫られた、様々な今回の一連の活動は、
僕自身の『鍛錬』を様々な形で実践させることとなった。結果、
確かに、色々な『もの』を僕は獲得した。そして、既に、今回獲得した『もの』の中には、実践を開始し、
今後も継続して続ける技術等もある。…本当に、今回も、色々な『もの』を獲得した。が…同時に…
僕は…心身ともに、不調を来した。
「何もなあ…」
『全国枠予選』、『五の形』、演武本番…少なくとも、僕の身体は既に壊れていた…
時間の経過とともに、言えることは、少なくとも、僕の両膝は、通常の形の演武をやり切れるような状態ではなかった。
未だに、僕の両膝は元に戻ってはいない。大分、回復はしているのだが…
『心』『技』『体』か…
それとも
『心』『気』『体』か…
『技』がまだ未熟か…『気』の扱いがちゃんと出来ていないのか…
先ずは、両膝…身『体』を治さなければならないのだろう。それも、稽古をしつつ…
『技』の研究、『気』の研究、自身の『心』のありよう、
そして、
『心』『技』『体』あるいは、『心』『気』『体』
のバランスのとれた、体現性、再現性
これらを踏まえて、『(柔道の)五の形』の演武をやり切ること。
僕の今後の課題の一部になる。
ふと、時間の経過に気付かされて…
『全国枠予選』を終えて、かなり、色々な意味で凹み…そして、既に結果も解っている状態で、とにかく、仕事が
休みなのだから、とにかく遠くへ行こう。と決めて、車に乗り込む。そして…気付く。
「そう言えば…今年は…まともに…桜の花を観ていない…」
十二分に、歩いていける位、近すぎるぐらい家の近くにも、桜の見る場所があるのだが、もう既に、
当たり前なのだが、満開は通り越していた。
「桜前線を…追い駆ける…?」
で、結局、福島県の柳津まで、行くことになってしまった。
2024.04.16、福島県 柳津の桜たち
柳津の桜を観ながらも、考えていたことは、僕にとっての謎だった。誰かと、共有も出来なければ、誰かに相談することも
出来ない。
「(『全国枠予選』、『五の形』の演武中の)あの3本目に…」
ふと何故だか昔を思い出した。
『公私混同』
単語は知識として知ってはいる。とある教授に笑われながら言われたことである。
『『公』と『私』の区別をしっかりと付けなくちゃ!!!』
で、これは(以下の四字熟語は)、本当に僕が最近知った言葉になる。
『公私分明』
…
ふと…底知れぬ哀しみを感じた。それは、ここ最近、僕が頻繁に感じる哀しみである。
そして、僕個人は、この件に関しては諦めている。
「一個人が、その歩んだ『道』で、究めた先で観た景色は、確かに、『私』のものなのだろう。そして、
それを、広く『公』のものにしたいと、願っても…誰もが、その景色を観れるわけではない。何故なら、
その『景色』は、その人が道を究めた先で観た景色。だれもが、『道』を歩めるわけではないし、現実には、
多くの人は、その『道』にすら辿り着けないから。さらに『道』を究めた先で…となれば尚更である。」
武術的な言葉でいうと…
『(僕が描いたものを見たとしても)誰もが取れる…わけではない…』
本当に…最近知ってしまった言葉なのだが…
「『公私分明』か…」
と、大自然の運行哲理に対する底知れぬ恨みをもって、呟いてしまう。
「永遠の『私』の中で、生きて往くか…」
独りでいると、確かに独り言も増える。問題が、解決したわけではないが、なんとなく心が落ち着いて来る。
「ああ…そうか…今度は、僕一人だけじゃなく、親父と妹を連れてこないとな…」
この呟きを再現するかの如く、1ヵ月後に、再び、今度は、親父と、妹、3人の家族で、福島県へ行く。
既に新緑の季節!?されども…
2024.05.14、福島県 柳津まで、足を運んで
今回は、独りではなかったのだが、個人的に車で、走ってみたかった『道』が在ったので…
「走りたい処を走っていいか?」
と、親父、妹の二人の了解を求める。
妹:「いいよ!」
親父:「いいぞ!好きな所を走って!!」
という了解を得て
…
国道459へ、
2024.05.14の車越しに感じた福島県の外気は、ひんやりとして冷たかったのだが、僕にはとても心地良かった。
そして、車から見える景色は、本当に初夏の景色だった。山、森、水、様々な形で催される大自然のコントラストが、
僕に次の疑問を投げかける。
「こういう…大自然の中で、『気』を蓄える?…あるいは『気』を養う…?」
今日は、『私』の日ではなかったが、頭の中では、直ぐに、自分が抱えている難問が頭をよぎる。十二分な景色が
展開されている中で、峠越し?に突然、絶景が現れた。
「この時期に、雪山がこんな間近に見えるとは…」
率直な感想である。新緑の初夏の季節の景色の向こう側に『雪山』を目の前にするとは、思わなかった。
2024.05.14,飯豊連峰
時間を確認して、親父と妹に確認をした。
「会津若松城に寄ってから帰るか…?」
親父、妹:「いいね!!!」
天気も良く、空気も澄んでいるのが肌越しに、良く解った。だから、かなりの期待をして、会津若松城へ向かった。
予想通りだった。上掲の写真の1枚は、会津若松城の天守閣の最上階の展望台から撮影をした1枚になる。
会津若松城、天守閣の中は、言うなれば、会津の歴史博物館である。
…なのだが…
展示物を見ることはしていたが、観ることはしていたのだろうか…
「日々の生活の中で、こういう景色を当たり前のこととして観ている者たちは、自然に心が洗われるのだろうか…?」
「空海?最澄?…境によって、心が、身体が、造られていくとは…?(追記参照)」
…
天守閣の中を、視界に展示物を認めながらも、自分に突きつけられている問題が、次々と頭をよぎる。
天守閣の外で、親父と妹が、僕を待っていた。親父が一言、僕に言った。
「『気』は済んだか…」
この親父の言葉に僕が反応してしまう。
「『気』は…済んだか…いや…何でもない…」
やっとの思いで、『気』を取り直して、親父と妹に提案をした。無駄に、天守閣の外で待たせたお詫びもある。
「あそこの、喫茶店で、コーヒーとか、ソフトとかでも食べるか…?」
こういう問いかけに対する、うちの家族のレスポンスは極めて速い。二人同時に
親父、妹:「良いね!!!」
親父と、妹にコーヒーとソフトをご馳走し、自分は、独りココアを飲んだ。ココアを飲みながら、他人に聴けない時に
僕が良く使う技術を使った。さっきまで、中にいた天守閣の方を見上げる。そして…いつものように、呟く。
「ねえ…どうなの…?さっきの僕の疑問…?」
会津若松城『君』は、何も答えてはくれなかった。
何も、答えてはくれなかった…が、温かく僕を見守っているような『気』がした。
おそらく、それは、意識的も、無意識的にも、会津の人達が、日々日常で感じている『気』なのだろう。
「ごちそうさん!!!」
先ず、親父の声が僕の耳に届いた。しばらくした後に、
「ごちそうさま!!!」
妹の声が耳に届いた。
僕は2種類の『ごちそうさま』を確認してから、2人に宣言した。
「ハイハイ!!!じゃあ、帰るよ!!!」
そして、またいつものように独り呟く。
「今度は、時間を掛けて、じっくりと…ですかね…」
僕の性分なのだろう。疑問が湧いてしまう事。さらには、難問を引き寄せてしまう事。
だが、なんとなく、時間の経過とともに、明確に、疑問が、難問が、それぞれが解決するような『気』がしている。
今まで、通りだ。そして、これからも、である。
2024.05.14、夕刻…
僕、親父、妹、以上3名は、会津若松城『君』からの見送りを背に感じつつ
会津の街をあとに、家路に着いた。
takumaroは今日も往く!
2024.05.14,会津若松城『君』
追記(2024.05.29~)
・2024.05.29,個人的に…編集、校閲、作業。
・補足、参考文献:著、村上 保壽 ~日本人こころの言葉~ 『空海』、創元社、p24、(2009)
『それ境(きょう)は心(しん)に随(したが)いて変ず。心垢(けが)るるときは則(すなわ)ち境濁(にご)る。
心は境を逐(お)いてうつる。境閑(しず)かなるときはすなわち心朗らかなり。心境冥会(しんきょうみょうえ)して、
道徳玄存(どうとくげんそん)す。』
・最澄にしても、空海にしても、『修行』するための『環境』については、かなりの『気』を使っている。