久々に、近い形で…その『画』を観て…
週刊 アーティストジャパン 2007.02.06 (所収)
『危険な行為』…
『どうしても、『遺したい物』がある。』
何かを描こうとしているその人の熱量が、そうさせるのだろうか…
それは、
詩、文章、作品、画、…
どのような媒体で?
とにかく、縁あれば、その…
『遺された物』
に僕らは出会う。上記の雑誌の中に、作品:屈原は、収録されている。
『横山大観 屈原』
と検索をすれば、その『画』を見る事が出来る。
此処で、個人的な在る疑問が浮上する。
「観えない方が…幸せ…!?」
個人的に、どうしても、たまに、その『屈原』を確認したくなる。
バランスを取ること!?
僕の部屋は、本という情報媒体で、本当に溢れかえっている。
そのような、溢れかえっている情報の中から、必要な物を取り出して、僕は『描く』事を続けている。
その僕にとって、『描く』という行為に於いて、必要な物を取りに行く。あるいは、確認をする。
あるいは、その物(それが、僕の魂(こころ)のときもある。)と僕が、対峙して、何かを掴もうと試みる。
いつの時代も、世の中は、混沌とし、その中で、人は生きている。
それは、その中で、生きている人にも影響を与えている…!?
他人の心の在りようを僕は、知らない。ただ…僕は、僕の心(魂)が混沌としているのが良く解る。
だから、様々な形式に於いてバランスを取る必要を迫られる。
僕自身の『喜』『怒』『哀』『楽』の感情に於いて
他人と僕、組織と僕、国家と僕、この時代と僕、世界と僕、…に於いて
奇跡的に、バランスを取り続けている!?
『描く』ための必要な物を探し求め、そして、その物を獲て、そして、無事に帰って来る。
『遺したい物』
から
『遺された物』
へ
こうして、様々な形で、僕個人の中で、なんとか、上記の変換をし、『描く』行為を続けて来た。
それは、
『遺された物』が在れば、他人の化学変化が期待できるから。
多分…そういう事なのだろう。
挑戦…(化学変化の例)
「屈原」を観て、いつも感じる事が在る。僕の素朴な疑問である。
…
「その人の『喜』『怒』『哀』『楽』が、にじみ出ているような顔は、『どんな顔』をしているのか?」
…
僕は、その顔を描いて見たいと思っている。其処に、生きて往く人の姿が現れるのかもしれない。
でも、多分…大多数の人は、このような物を求めてはいない。
求めているのは、少数の人のみ。
さらに、其処で、化学変化が期待できるのか…
いや…もう止める。
僕は、描き続ける。ただそれだけ。
takumaroは今日も往く!