『超個人主義』!ちなみに、僕は超個人主義者!?
カタカナで、
『サンケンブンリツ』
として、お話の続きをする。
『何故!?』
という事なのだが、カタカナの方が都合が良さそうだ…と僕が考えているから。
というのは…僕の感覚でだけれど…気付いてしまった…
『三権分立』、『三県分立』、『三圏分立』、『三験分立』、『三研分立』、…
本当に、キリが無い。
まあ、いずれにしても
『バランス感覚』
が極めって重要になり、かつ、必要になるのだけは、本当に良く解るのだが…
先に、今回のお話は、『説教』になる。念のために『説教』の意味の説明を先にしておく。
『説教』:他人に説き教える事を通じて、改めて自身を律する事。自身の思考を確認する事。
さて、今回のお話の本題…(上記、緑の太字を中心に)
その言葉の音を意味する処として、
『サンケンブンリツ』
としている。僕は、そのつもりである。だが、実際に『文字』に起こせば、また違う意味が観えて来る。
『三験分立』:『験』という漢字には、試される。あるいは、試された結果。という語義(正確には字義)がある。
で、実際に、人がどのような処から『試される』のか…という事を考えて見る。
多分…以下の3方向から、『試される』事が多いのではないか…多分、その何れかに集約するのかと
僕は考えている。
①、ライバル(特定の個人)との関係性において
②、自分自身との関係性において
③、特定の個人としての自分と、自分が所属している組織や集団の中での関係性において
これらを踏まえて、僕なりの『三験分立』の意味は
(意味):自分自身を取り巻く環境の一部である、様々な関係性において、それぞれ独自に考え、
『バランス』良く、一貫性が失われないように、正しく行動をする。
となる。
組織や集団の中では、偉い人、権力者たちに媚び諂い、あるいは、自身の意見も言えないのは、
『三験分立』になっていない。が出来ていない…が、日本的なのだろうか…
多分、『三験分立』になっていない。が出来ていない…そのような人が、現実には大多数派なのだろう。
ちなみに、『三験分立』を実行、実践しようとすると、その個人は極めて高い能力を求められることになる。
変な話だが、現実には、集団や組織の中で意見を主張する事は、勇気が必要になる。
この国の場合は、自殺行為と同じだろう。実際に、意見を主張した後に必ず来る排他的な差別的な対応や、あるいは、
身に覚えのない、その意見を主張した人間のデマを流されたり、等…
でも…まあ…
「どうするのかは、『あなた』が決める事だ…」
もし、あなたが、意見を主張するのなら
さらに、自身が提示した『意見(あるいは主張)』に、学問を土台とする健全な精神が在るのか、さらには、
美学や哲学が在るのか、という事まで求められる。当たり前の話だが…
其処で…改めて(意見を主張できるだけの能力を身に付けるために)自分自身を鍛え直さなければならない。
少し、言葉の説明を先に…『学問を土台とする』とは、そういう姿勢の意味で僕は描いている。
単純に、
「とにかく、沢山の本を読め!」
と言いたいが、昔なら、これでも対応が出来たが、現実には、次の3つのスタンスで勉強をする事が求められる。
『バランス感覚』
を獲るために。
1、『勉強』をする。(社会や、組織、集団の中での、自分とのズレを調整するための行動。)
2、『修行』をする。(基本的な自分自身の能力をさらに高めて行くために、あるいは、自分自身を律するための行動。)
3、『稽古』をする。(先人達から教えを請う。先輩に学ぶ。歴史に学ぶ。)
(少し前に、ツイッターで、これらの言葉の意味は僕は呟いた。ちなみに、改めて、子供ではないのだが、未だに『勉強』は嫌いである。ただ、上記の3つの観点で『バランス感覚』を獲るために仕方なく『勉強』は僕でもしている。)
本当に凄い世の中になったと…改めて思う。だって…単純に
「とにかく、沢山の本を読め!」
とは言う事の出来ない世の中である。僕が感じる限りは…その理由は…
『本当に深刻な情報汚染が平然と行われている。『フェイクニュース』だけではない…『フェイク本』まで巷に溢れている…』
あなたは、こう感じている?
「説明のための…説明のための…説明のための…」
僕も、正直…
「…」
という風に感じている。
話を戻そう。
『『三験分立』を実行、実践しようとすると、その個人は極めて高い能力を求められることに成る。』
では、どうやって、その高い能力を獲得していくか…それが
『三研分立』になる。
『三研分立』:『研』という漢字には、研ぐ、究める、磨く、といった字義がある。
やみくもに、『研ぐ』、『磨く』という事では無い。やはり、
『バランス感覚』、は必要になる。
僕は『柔道』をしているので、
一つは、『心』を、一つは、『技』を、一つは、『体』を…
色々な準備が出来た処で…
(意味):(あなた自身で、あなたの言葉で描いて見て下さい。僕のを此処に描くのは控えます。)
さて、僕は、これらは、僕の『こじつけ』かもしれないが、2つの言葉を紹介した。
『三験分立』、『三研分立』、
気付いている方がいると幸いである。これらの紹介した言葉の意味と、その背後には『個人』が存在している。
では、『個人』とはどういう存在か?
『この国に於いては、天然記念物のような存在…』
悲しくもあるが、しかし、これが現実である。
takumaroは今日も往く!
追記
写真は、今年(2018年)上野の公園で、確かに『梅雨明け』を感じた時に、撮影した物である。
自身の能力の一部として、季節の変わり目というのは、確かに感覚として感じる事はある。勿論、僕だけではないだろう。
さて…今回のお話を読んだ『あなた』の『何か』は明けたのだろうか…